vol.192 短い茅束が語る

 3年ほど前に修理をしたお家から、別の面で雨漏りが発生したので見に来て欲しいとの連絡があり、しばらくぶりに訪問した。

 初めて工事した当時、お施主さんは90歳越えのおばあさん。しかし驚くほどに元気な方だった。紹介、仲介して下さった方が、「私の人生の師匠なの!」とおっしゃっていたのを思い出す。段差のある屋内をしっかりと歩き、ハキハキとよくお話しされた。

 工事に取り掛かったのは、初訪問から半年くらい経ってからだったろうか。その半年ほどの間に、おばあさんはご病気になられた上に退院後にお怪我もされて、長い入院生活を経験されたらしい。工事に取り掛かり始めた頃には退院され、元通りお一人での生活もされていたが、めっきり足腰が弱り、しゃべり方もゆっくりとなり、同じ話を幾度も繰り返されるようになった。

 休憩のお茶に呼んで下さるたび、お嫁入りの頃の話、子育て時分に生活苦だった話等、3パターンくらいのエピソードをひたすら繰り返し聞いた。ほんの数ヶ月前のかくしゃくとした姿を見ているだけに、少々せつないものがあった。

 足場を設営し、古屋根を解体し、新しい茅をトラックで運び込んだ日のことだった。つかまり立ちしながら傍で見ていたおばあさんが、一言、「立派な茅やなぁ…。」と呟かれた。

 茅は自分が冬に刈ったもの。つまり広義には"この地域の茅"である。別段、変わったものではない。それでもじっと茅を見つめてそう呟いたお施主さんの様子が印象的だった。

 同じ話ばかり繰り返すようになった今でも、記憶の残滓とでも言おうか、茅の目利きは生きているのだなと、何となくジーンときた。

 

 3年ほど経ち、今回。おばあさんは元気ではあるが入院生活中で、家は空き家状態とのこと。他所に住んでいる息子さんが足繁く通い、何とかこの家は維持したいと思っていて…と頑張っておられた。

 屋根に開いた穴を埋める応急的な工事。茅は、前回使わずに緊急時用にとっておいた、小屋にストックしているお施主さんの茅を用いることにした。久々に見て、思わず苦笑いする。そうそう、妙に短いんだよな…。

 この茅は、おばあさんが元気だった頃に刈って溜めていたものらしい。車を運転されない故、いわゆる"その辺の茅"だろう。当時のことは分からないものの、付近を見渡しても、この辺りには背の高いススキの群生はない。ちょこっと申し訳程度に生えた小さな茅でも、必要だからとせっせと刈り溜めたのだろう。正直のところ短すぎてとても使いにくいのだが、今こそこの茅を使うべきだろうと何となく思えた。

 3年前当時の、「立派な茅やなぁ…。」と呟いた理由が何となく分かったからだ。同じ市町村内で刈った茅でも、どうにか刈り集めた"その辺の茅"と、職人自ら選別して刈った茅、である。品質は違うに決まっている。しかし問題はそこではない。おばあさんには、"立派な茅"がどんなものか分かっている。それでもどうにか自力で必死で集められた茅がこれなのである。だからこそ、思わずあの呟きが出たのだろう。

 

 「この茅使ってもらえて嬉しいです、お袋がきばって集めてたから…。」息子さんの言葉も身に染みる。短い上に大した量もないし、そもそも応急的な処置でしかない。けれどそれだけに、この茅に込められた必死の執念のようなものを感じずにいられない。

 寿命の短い茅葺き屋根であるがゆえに、その永続性は継承によって紡がれる。この短い茅束は、次代へのバトンなのかも知れない。立派ではなくとも、大きな意味のあるバトンなのだ。